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8つの信仰告白

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【告白1】

私は救われています。私はイエスさまが神の子キリストであることを信じているので、イエスさまの御名により、いのちを得ています[1]。主イエスさまは、私の背きの罪のために死に渡され、私が義と認められるために、よみがえられました[2]。私は御子を信じているので、滅びることがなく、永遠のいのちを持っています[3]。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われます[4]。イエスさまは私の主です[5]。バプテスマにおいて、私はキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです[6]。あわれみ豊かな神は、背きの罪の中に死んでいた私を、キリストとともに生かし、イエスさまと共に天上に座らせてくださいました[7]。私は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めます[8]。私はすでに死んでいて、私のいのちは神にあって隠されています。私のいのちであるキリストが現れると、そのとき私も、キリストとともに栄光のうちに現れます[9]。私は今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望みます[10]

 

【告白2】

私は神の子どもです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私をイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました[11]。私はイエスの御名を信じているので、神の子どもとなる特権を与えられました[12]。私は信仰によって、キリスト・イエスにあって神の子どもです[13]。神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。私は、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのでなく、子とする御霊を受けたのです。私は御霊によって「アバ、父」と叫びます[14]。「天にいます私たちの父よ、御名が聖なるものとされますように」と祈ります[15]。私が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによります[16]。私が神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、私は考えます[17]、私はもはや奴隷ではなく、子です。子どもであるなら、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人です[18]。私は御国を相続します[19]。私はキリストとともによみがえって、千年の間、王となります[20]

【告白3】

私は義人です。神は、罪を知らない方を私のために罪とされました。それは、私がキリストにあって神の義となるためです[21]。私は以前、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした[22]。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます[23]。私はただ、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いを通して、値なしに義と認められました[24]。私は信仰によって義と認められたので、神との平和を持っています[25]。キリストの血によって義と認められた私が、キリストによって神の怒りから救われることは、なおいっそう確かなことです[26]。私はイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができます[27]。正しい人の祈りは働くと大きな力があります[28]。「主の目は正しい人の上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる」ので、主は私の祈りに関心を持ってくださいます[29]。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は私の願いを聞いてくださいます[30]

 

【告白4】

私は自由です。キリストが、自由を得させるために、私を奴隷のくびきから解放してくださいました[31]。キリストが私のためにのろわれた者となることで、私を律法ののろいから贖い出してくださいました[32]。私の古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私がもはや罪の奴隷でなくなるためです[33]。私は自由を与えられるために召されました。その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって人に仕えることができます[34]。私は肉の欲望を満たすのではなく、御霊によって歩みます[35]。主の御霊がおられるところには自由があります。私は覆いを取り除けられた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます[36]。私は、まだこの世に生きているかのように、「つかむな、味わうな、さわるな」といった定めに縛られません[37]。私はだれに対しても自由です[38]。ですから、私の死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従うことはしません[39]。私は、代価を払って買い取られました。ですから、私のからだをもって神の栄光を現します[40]

【告白5】

私はいやされました。イエスさまが私のわずらいを担い、私の病を負ってくださいました[41]。彼は、私のそむきの罪のために刺され、私の咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私に平安をもたらし、彼の打ち傷のゆえに、私はいやされました[42]。私は羊のようにさまよっていました。しかし今や、自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰りました[43]。私は神の宮であり、神の御霊が私のうちに住んでおられます[44]。私のうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大です[45]。キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方が、私の死ぬべきからだも生かしてくださいます[46]。主は心の打ち砕かれた者をいやし、私の傷を包んでくださいます[47]。神は、どのような苦しみのときにも、私を慰めてくださいます[48]。今は恵みの時、今は救いの日です[49]。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主は私を立ち上がらせてくださいます。もし私が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、私はいやされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈ります[50]

 

【告白6】

私は圧倒的勝利者です。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません[51]。神はキリストにおいて、様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました[52]。神の御子が現れたので、悪魔のわざは打ち破られました[53]。私は暗闇の力から救い出されて、愛する御子のご支配の中に移されました[54]。平和の神は、速やかに、私の足の下でサタンを踏み砕いてくださいます[55]。私は神に従い、悪魔に対抗します。そうすれば、悪魔は私から逃げ去ります[56]。神はいつでも、私をキリストによる凱旋の行列に加え、私を通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます[57]。主ご自身がこういわれます。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」ですから、私は確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」[58]

【告白7】

私はイエスの御名を持っています。神は、その大能の⼒をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご⾃分の右の座に着かせて、すべての⽀配、権威、権⼒、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました[59]。すべての名にまさる名、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざをかがめます[60]。金銀は私にはありませんが、私はその御名を持っています[61]。イエスさまの御名によって父に求めるものは何でも与えられます[62]。イエスさまの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、私を強くします[63]。御名のために辱められるに値する者とされることは、私の喜びです[64]。私は、イエスさまの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行きます[65]。キリストは私のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、私に模範を残されました[66]。この世において、私はキリストと同じような者です[67]。ことばであれ行いであれ、私が何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行います[68]

 

【告白8】

私は祝福されています。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私を祝福してくださいました[69]。希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安で私を満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいます[70]。神は私の心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいます[71]。私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、私の必要をすべて満たしてくださいます[72]。私たちすべてのために、ご⾃分の御⼦をさえも惜しむことなく死に渡された⽅が、御⼦とともにすべてのものを、私に恵んでくださいます[73]。私はすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みをおきます[74]。私を強くしてくださる⽅によって、私はどんなことでもできます[75]。私はまず神の国と神の義を求めます。だから私に必要なものはすべて与えられます。私は明⽇のことまで⼼配はしません[76]。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、私の願い事を神に知っていただきます。そうすれば、すべての理解を越えた神の平安が、私の⼼と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます[77]

 

[1] ヨハネ20:31

[2] ローマ4:25

[3] ヨハネ3:16

[4] ローマ10:9-10

[5] 第一コリント12:3

[6] コロサイ2:12 (ローマ6:3-5)

[7] エペソ2:4-6

[8] ローマ6:11

[9] コロサイ3:3-4

[10] テトス2:12-13

[11] エペソ1:5

[12] ヨハネ1:12

[13] ガラテヤ3:26

[14] ローマ8:14-15

[15] マタイ6:9

[16] 第一ペテロ1:23

[17] 第一ヨハネ3:1

[18] ローマ8:17

[19] エペソ1:14

[20] 黙示録20:4-6

[21] 第二コリント5:21

[22] テトス3:3

[23] ローマ4:5

[24] ローマ3:24

[25] ローマ5:1

[26] ローマ5:9

[27] ヘブル10:19

[28] ヤコブ5:16

[29] 第一ペテロ3:12

[30] 第一ヨハネ5:14

[31] ガラテヤ5:1

[32] ガラテヤ3:13

[33] ローマ6:6

[34] ガラテヤ5:13

[35] ガラテヤ5:16

[36] 第二コリント3:17

[37] コロサイ2:20-21

[38] 第一コリント9:19, 6:12

[39] ローマ6:12

[40] 第一コリント6:20

[41] マタイ8:17

[42] イザヤ53:5

[43] 第一ペテロ2:25

[44] 第一コリント3:16

[45] 第一ヨハネ4:4

[46] ローマ8:11

[47] 詩篇147:3

[48] 第二コリント1:4

[49] 第二コリント6:2

[50] ヤコブ5:15-16

[51] ローマ8:37-39

[52] コロサイ2:15

[53] 第一ヨハネ3:8

[54] コロサイ1:13

[55] ローマ16:20

[56] ヤコブ4:7

[57] 第二コリント2:14

[58] ヘブル13:5-6

[59] エペソ1:20-21

[60] ピリピ2:9-10

[61] 使徒3:6

[62] ヨハネ16:23

[63] 使徒3:16

[64] 使徒5:41

[65] へブル13:13

[66] 第一ペテロ2:21

[67] 第一ヨハネ4:17

[68] コロサイ3:17

[69] エペソ1:3

[70] ローマ15:13

[71] 第二テサロニケ2:17

[72] ピリピ4:19

[73] ローマ8:32

[74] 第一テモテ6:17

[75] ピリピ4:13

[76] マタイ6:33-34

[77] ピリピ4:6-7

信仰告白の力

 「さて、私たちには、もろもろの点を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、

  信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」(ヘブル4:14)

 

 私たちクリスチャンは、心で信じることを大切にしています。「あなたがたは信仰によって救われたのです」(エペソ2:8)とある通りに、イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは救われているからです。このことは全くの真理であり、否定しようがありません。

 ところが、よく誤解されやすいのですが、信仰とは「心で信じること」の内面で完結するものではありません。信仰には告白が伴います。そして、告白が信仰を生きたものとするのです。(ローマ10:8-10、第二コリント4:13)

 そして、告白は一度すれば終わりではありません。もう一度ヘブル4:14に目を向けましょう。「信仰の告白を堅く保とうではありませんか」と言われています。信仰の告白は「堅く保つ」べきものです。ですから、告白は「一年前にイエスを主と告白したから、もう告白する必要はない」といった類のものではないのです。毎日のように、自分の信じている信仰を告白することで、このみことばの通りにすることができます。

 告白することは、律法ではありません。たとえ毎日告白しなくても、救いが失われるわけではありません。ですが、クリスチャン生活の中で神のみことばの力を味わい知るためには、告白はなくてはならないものです。信仰を何度も告白することで、もう一度自分の信じていることを確認することができ、ますますその信仰が堅固なものとなっていくからです。

 

 次に、告白を別の角度から説明してみます。マルコの福音書 11章22-23節を読んでみましょう。

 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。この山に向い、

『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、

そのとおりになります。」

 

 これはイエスさまが信仰について教えたみことばです。ここでもやはり、「言う」という動詞が出てきます。山に向かって動けと「言って」、自分の「言った」通りになると信じるなら、そのとおりになるとイエスさまは言われました。

 山が動いて海に入るなど、私たちの感覚からすれば、ありえない話です。このような、感覚的に信じがたいことが、果たして本当に起こりうるのでしょうか。

 しかし、イエスさまは「神を信じなさい」と招いておられます。マルコ11:23によれば、あなたが信じて「言った」とおりのものをあなたは受け取ることになります。あなたは、山が動くわけがないと思ってしまうでしょう。しかし、神のみことばが宣言することを信じて告白するならば、本当に「それは起こる」とイエスさまは約束しているわけです。

 感覚や感情があなたに訴えることと、神のことばがあなたに語ることは、時には正反対です。例えば、あなたが何らかの罪を犯しているとしましょう。「どうしても赦せない」という怒りを抱えているとしましょう。痛みを感じているとしましょう。「神がすべてのことを益とされる」(ローマ8:28)だなどと信じられないとしましょう。それは否定しようのない事実です。しかし神のことばは逆のことを語っています。「罪から解放されて、義の奴隷となりました」(ローマ6:18)、「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(コロ3:9-10)「あなたはいやされた」(イザヤ53:5)。

 どちらの事実を告白するべきでしょうか?コリント人への手紙第二 4章18節を読んでみましょう。

私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。

 

 見えるもの―あなたの感覚で感じていることに目を留めることは簡単です。ですが、見えないもの―あなたの感覚とは真逆のことである神のことばの約束に目を留めることこそが、信仰であると言えます。もし、本当に神のことばが実現した事実を目にしてから、「私は信じます」と言っても、それは信仰ではありません。

 だからこそ、私たちは、信仰の告白を堅く保つことが大切です。信仰の告白を保つことで、神のみことばの力を、文字通り味わい知っていくことができます。告白していても、最初はピンとこないこともあるかもしれません。私たちが五感の世界で感じることと、神のみことばが語る霊的な事実にはギャップを感じることが多いからです。しかし、告白を続けていくならば、だんだんとそれが真理であると、確信をもって受け取ることができるようになるでしょう。

 

 「8つの信仰告白」は、信仰告白の助けとなるものとして作成したものです。聖書のことばをそのまま告白することで、本来の自分のあるべき立場を思い出すことができます。

 1つの告白あたり、1分と数十秒で告白することができます。8つ全部を告白すれば、10分程度です。最初はピンとこない部分があると思います。ですが、できれば毎朝、告白を保つことをおすすめします。そうすれば、だんだんとクリスチャンとしての立場を確信することができるようになります。

 

 「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)

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