長老信仰宣言 (Elder Affirmation of Faith)
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Original Text by John Piper (ジョン・パイパー)
Japanese Translation by Simon Mihara
Used by permission of Bethlehem Baptist Church, Minneapolis, Minnesota, USA
以下の文章は、ベツレヘム・バプテスト教会の許可を得て翻訳したものです。
原文は<https://bethlehem.church/elder-affirmation-of-faith/>を参照してください。
※当教会の牧師はこの信仰宣言に完全に同意しております。
第1条:神の書かれたことばである聖書
1.1 私たちは、旧新約66巻からなる聖書は、無謬なる神のことばであり、神によることば霊感を受けたもので[1]、それゆえ原典において何の誤りもない[2]と信じる。
1.2 私たちは、聖書において明らかにされている神のみこころが、何が真実で、正しいことであるかについてのすべての主張を検証する上で、最高かつ最終的な権威であると信じる。聖書で取り上げられていない事柄における、何が真実で、正しいことであるかについては、聖書の教えと一致する基準によって評価される。
1.3 私たちは、神のみこころが、霊感を受けた人間の著者の意図を通して明らかにされていると信じる。旧約聖書の預言のように、著者の意図が神の意味の完全な現れではなかった時でさえ、そうである[3]。聖書本文の意味は史実に固定され、歴史に根差したものであり、人間の著者を通して現された、変わることのない神のみこころを示している。しかし、意味が変わることはないとしても、適用は様々な状況によって変化する可能性がある。だからと言って、神によって霊感されたみことばから明示的に導き出され得ない意味を、聖書本文から推測することは正当ではない[4]。
1.4 それゆえ、聖書から神のみこころ(聖書の完全な意味)を見出す手順は、聖書の言語から、人間の著者が伝えようとしたことを見出そうとするという、謙虚で慎重な努力を要するものである。限られた能力、伝統的な先入観、個人的な罪、文化的な思い込みなどが、聖書のテキストをわかりにくくしてしまうことがよくある。したがって、聖書を正しく理解するためには聖霊の働きが不可欠であり[5]、聖霊の助けを求める祈りは、神のみことばを理解し、適用するための適切な努力に属する[6]。
第二条:三位一体、三つの位格をもつ一人の神
2.1 私たちは、唯一[7]の生ける神[8]、主権者[9]、そしてあらゆる栄光に満ちた神[10]を信じる。神は無限に偉大な、ほめたたえられるべき三つ[11]の位格のうちに、永遠に存在するお方である。すなわち、すべての存在の源である[12]父なる神[13]、造られずして生まれ、始まりもない[14]、父と同一の本質を持つ[15]永遠のひとり子[16]である御子なる神[17]、父と御子から永遠に発せられ、一つの位格として[18]、神としての本質[19]を持つ聖霊なる神である。このように、三位一体の神のそれぞれの位格は、完全に神である。
2.2 私たちは、神の三位一体の交わりの中には究極の喜び[20]があり、それぞれの位格が、三位一体の神のすべてを満足させる完全さの中に、永遠の比類なき喜びを見て、表現していると信じる。
第3条:神の永遠の目的と選び
3:1 私たちは、神が永遠の昔から[21]、ご自身の栄光[22]を全宇宙に現すため、そしてご自身を愛する者[23]の、永遠に豊かにあふれ出る喜びのために[24]、最高の知恵とみこころによる聖なるご計画によって[25]、自由に、不変[26]の定め[27]と予知[28]のままに、すべてのことを行っておられると信じる。
3:2 私たちは、神がすべてのことを維持し、治めておられると信じる。それは、宇宙[29]から素粒子[30]まで、自然の力[31]から国々の動き[32]まで、政治家の政策[33]から、孤独な人の秘密の行為[34]にまで及んでいる。すべては神の永遠と、ご自身の誉れのための知恵に富む[35]目的に合わせられる。その方法において、神ご自身は決して罪を犯されず[36]、不公平に人をとがめられることもない[37]。しかし、すべてのことにおける神の定めと統治は、神のかたちとして創造されたすべての人の持つ道徳的な説明責任[38]と矛盾なく両立する。
3:3 私たちは、神の選びは無条件[39]かつ自由な恵みの行為[40]であり、世の始まる前から御子イエス・キリストを通して与えられていたこと[41]を信じる。神はこの選びの行為によって、世界の基が据えられる前から、罪の束縛から解放され[42]、悔い改めへと導かれ[43]、御子イエス・キリストを信じる信仰によって救われる[44]人々を選ばれたのである。
第4条 神による全宇宙と人間の創造
4.1 私たちは,神がご自身の力あるみことばによって,全宇宙[45]とその中にあるすべてのもの[46]を、無から[47]創造されたと信じる。神はご自身に何の不足もなく、ご自身の内にある喜びに満ちた満足[48]以外の、何らかの不完全さによって動かされることもない。神は、あらゆる部族、言語、民族、国民[49]から贖われた人々の永遠の喜び[50]のために、ご自身の栄光を被造物の中に示すことを喜ばれる[51]。
4.2 私たちは、神が地のちりからアダムを、その傍らにはエバを直接創造されたと信じる。アダムとエバは、全人類の歴史的な祖先であり[52]、彼らは男と女とに、等しく神のかたち[53]として、罪のない者[54]として創造されたことを信じる。アダムとエバは、神が全てを満たしてくださるすばらしいお方であると信じ、神の無限の美しさに感動し、神との個人的な交わりを楽しみ、神の完全な知恵によるご計画に従うことによって、自らの創造主、支配者、すべてを与える方、友であるお方をほめたたえるため[55]に創造された。そして、神の愛と知恵のうちに、この二人はキリストと教会を示す型として、結婚において、異なる役割、補完的な役割[56]を任された。
第5条 人類の罪と神との交わりからの堕落
5.1 私たちは、神は人を道徳的に真っ直ぐな者に造られたが、サタンの巧妙な策略[57]によって、人は神のみことばと知恵から外れた方向に導かれ、禁じられたものを取ることを選んだ[58]ことにより、人は恵み深く、あわれみ深い創造主からの独立、不信感、不服従を宣言したと信じる。この罪によって、私たちの最初の祖先は、神との間で元々持っていた純真さと交わりから堕落した[59]のである。
5.2 私たちは、以下のことを信じる。全人類の長としてのアダムの堕落は、その子孫全員の堕落となった。すなわち、堕落、罪、死、非難はすべての人に属するようになった[60]のである。このように、すべての人は生まれつき堕落しており[61]、罪の奴隷とされており[62]、神を喜び、つかの間の自分中心的な快楽を好む高慢な性質を克服することが、道徳的に不可能[63]とされている。
5.3 私たちは、神が被造物を虚無に服させていること[64]、全人類が病気[65]、老化[66]、災難[67]、死[68]といった語りつくせないほどの不幸にさらされていることを信じる。世界のすべての逆境と苦しみは、人類の心における道徳的堕落という非常に大きな悪の反響であり、証言者である。そして、私たちの人生におけるすべての新しい日は、神から与えられた、差し迫ったさばきからのあわれみ深い猶予であり、悔い改めを呼びかけるもの[69]のである。
第6条 受肉された神の御子イエス・キリスト
6.1 私たちは、時が満ちて[70]、神が永遠の御子をメシア[71]であるイエスとしてお遣わしになり、聖霊によって受胎され[72]、処女マリアからお生まれになった[73]と信じる。私たちは、以下のことを信じる。永遠の御子が受肉された時[74]、完全な人間の性質[75]を身につけられ、神性と人性という二つの性質は全体として完全で、別個の性質として、混ざり合うこともなく、一人の人のうちに不可分に結びつけられた。このように、イエス・キリストというお方は、真の神[76]であり、真の人間[77]でありながら、唯一のキリストであり、神と人との間の唯一の仲介者[78]であられる。
6.2 私たちは、イエス・キリストが罪を犯さずに生きておられたと信じる。キリストは人間の人生に共通して存在する弱さや誘惑に耐えられた[79]。キリストは人類の歴史における比類なき真理と権威を説き、教えられた[80]。キリストは奇跡を起こされ、すべての被造物に対する神の主権と力を示された。悪魔を追い払い[81]、病人をいやし[82]、死者をよみがえらせ[83]、嵐を静め[84]、水の上を歩き[85]、パンを増やし[86]、ユダの裏切り[87]やペテロの否認[88]、回復、最終的な殉教など、ご自身と弟子たちに起こること[89]を前もって示された。
6.3 私たちは,御子の人生は、御父の摂理に支配されていたと信じる。すなわち、旧約聖書における来るべき方に関するすべての預言―女の子孫[90]であり,モーセのような預言者[91]、メルキゼデクの例にならう祭司[92]、ダビデの子[93],苦難のしもべ[94]など―を成就させるものであった[95]と信じる。
6.4 私たちは、イエス・キリストは神の贖いの計画の実現[96]のために、自発的に苦しまれた[97]と信じる。キリストはポンティオ・ピラトの下で十字架につけられ[98]、死んで[99]葬られ[100]、その生涯と死における救いのみわざを立証するため[101]に、三日目に死からよみがえられ[102]、何ものにも打ち負かされない、永遠の主の栄光ある地位を与えられた[103]。キリストは復活してから40日間、肉体をもって復活された多くの説得力のある証拠[104]を示され、肉体をもった姿で天に昇られ[105]、御父の右の座に着かれ[106]、罪のための完全な犠牲に基づいてご自分の民のためにとりなしてくださり[107]、すべての敵をその足の下に置くまで、王として治められる[108]。
第7条 キリストによる救いのみわざ
7.1 私たちは、以下のことを信じる。イエス・キリストは神への完全な従順[109]により、罪のない神の子羊[110]としての苦しみと死[111]により、罪の赦し[112]と完全な義の賜物[113]を手に入れられた。それは、イエス・キリストが十字架にかかる以前から神を信頼していたすべての人[114]と、それ以降、キリストを信頼するすべての人[115]に与えられる。キリストは完全な生涯を過ごされ、私たちのために死なれた。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたことにより、私たちの刑罰をすべて吸収し[116]、私たちに対する神の怒りをなだめ[117]、私たちの義認における神の義を立証し[118]、私たちを責め立てている律法の責務を取り除いてくださった[119]。
7.2 私たちは、罪のためのキリストの贖いは、すべての人に福音が普遍的に提供されることを保証し、駆り立てるものであると信じる。それゆえ、すべての人に対して、次のように言うことは正しい。
「神は、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを得るために、そのひとり子をお与えになりました[120]。誰でもきよめられるために、この泉のところに来なさい[121]。イエスのもとに来る者を、イエスは決して外に追い出したりはしません[122]。」
7.3 私たちはまた、キリストの死が、すべての人のために、福音が正式に提供される以上のものであったと信じる。キリストの死は、新しい契約[123]による全能者のあわれみを手に入れるものであり、悔い改め[124]と信仰[125]によって与えられる、神の選びの民のためのものである。キリストはすべての人のために死なれたが、すべての人のために同じように死なれたわけではない。キリストはその死において、ご自分の友[126]、羊[127]、花嫁[128]に対して特別な契約の愛を示された。彼らのために、キリストは御霊の無謬かつ有効な働きを手に入れられた。彼らが世で反対する者に勝利を得、救いの信仰へと導かれるためである[129]。
第8条 聖霊による救いのみわざ
8.1 私たちは、聖霊が常にこの世界で働いていて、天地創造の業を分かち合われ[130]、神の民の残りの者に対する信仰を目覚めさせ[131]、しるしと不思議を行い[132]、戦いで勝利をもたらし[133]、預言者の説教に力を与え[134]、聖書を書くように導かれていること[135]を信じる。しかし、キリストが罪の贖いを成し遂げて、御父の右の座へと昇られたとき、ご自分の教会に対する御父の約束に従って御霊を注がれることにより、新しい時代が始まった[136]のである。
8.2 私たちは、この時代の新しさは、十字架につけられ、よみがえったキリストをほめたたえる御霊による、前代未聞の宣教によって示されている[137]と信じる。この宣教は、イエスの弟子たちに、キリストの栄光の福音を宣べ伝えるためのすばらしい力が与えられること[138]によって行われる。御霊はキリストを見て信じたであろう聴衆の心を開くこと[139]により、またみことばによってキリストの美しさを明らかにし、栄光から栄光へと主の民を変えられること[140]により、またみことばを確証させ[141]、キリストのからだを建て上げるために[142]、ご自身の霊的な賜物を現されることにより(第一コリント12:8-10にあるすべての賜物をご自身のみこころに従って、自由に与えられる)、またすべての国々を、キリストの福音の支配下へと招くことにより[143]、そしてこれらのすべてにおいて、神の永遠の住まい[144]のためにきよめられた民[145]を創造し、保たれるという新しい契約の約束を成就することによって、宣教を遂行される。
8.3 私たちは、御霊の有効的な働きがなければ、誰も信仰を得ることはできない[146]と信じる。なぜなら、すべての人は背きと罪の中で死んでいる[147]からである。私たちは神に敵対しており、道徳的に神に従うことができず、神を喜ばせることができない[148]。なぜなら、罪の喜びは神の喜びよりも大きく見えるからである[149]。したがって、神の選びの民のために、聖霊はあらゆる抵抗に勝利させ[150]、死者を目覚めさせ[151]、盲目を取り去り[152]、心をつかんで離さないような美しい方法でキリストを現してくださる。それはキリストが新生した心に対して、抗いがたいほど魅力的になるという福音を通して現される。
8.4 私たちは、聖霊がこの救いのみわざを、キリストの栄光の福音[153]を伝えることと結びつけて行われると信じる。選びにおける御父の業も、贖いにおける御子の業も、再生における御霊の業も、世界中にいるすべての人々に福音を宣べ伝えることを妨げるものではない。それどころか、この三位一体なる神の救いの業は、私たちの伝道が主にあって決して無駄ではないという私たちの希望の根拠となるものである。御霊が救いのみわざをキリストの福音に結び付けるのは、福音のうちにキリストをほめたたえることを目的としているからである[154]。それゆえ、聖霊の力によって福音を受けることを通して以外の、他の方法によって救いが得られると私たちは信じていない[155]。ただし、乳幼児や重度の知的障害者、身体的に福音を理解することができない心の持ち主は救われる可能性がある[156]。
第9条 神が義と認める行為
9.1 私たちは、神の義の恵みによる自由な行為において、神は行いによるのではなく、信仰のみによって[157]不敬虔な者を義と認められ、その罪を赦し[158]、神の御前で受け入れられる、正しい者とみなしてくださる[159]と信じる。信仰とは、罪人である私たちがキリストと結ばれる唯一の手段[160]であり、キリストの完全な義と罪の償いが、私たちが神に受け入れられる唯一の根拠である[161]。神に受け入れられるということは、義認の最初の瞬間に完全かつ永遠になされたのである[162]。このように、私たちが神と共に正しい立場に立つための義は、私たちの内側に神が働きかけたものではなく、バプテスマの時、あるいは時間の経過によって私たちに付与されたものでもなく、むしろ私たち自身の外で達成され、私たちのために転嫁されるものである。
9.2 それにもかかわらず、信仰とは、義認の賜物を受けとる唯一のものであるが、義とされた人の中にただ存在するだけではなく、聖霊によって[163]愛の実[164]を生み出し、必然的に聖化へと導く[165]ことを信じる。義と認められる信仰と、良い行いの実との間にある密接な関係は、良い行いの実を義認の根拠や手段としているかのように見える聖書の表現[166]を生み出しているが、実際には、良い行いの実を結ばない信仰は死んだものであり、真の信仰ではないという重大な真理をシンプルに表現しているだけである[167]。
第10条 信仰と聖化における神のみわざ
10.1 私たちは、義認と聖化はどちらも信仰により[168]、神によってもたらされると信じる。しかし、それは同じ方法によってではない。義認は神が転嫁し、みなす行為[169]であり、聖化は神が付与し、変容させる行為[170]である。従って、信仰の機能はそれぞれに異なる。義認に関しては、信仰とは力や変容が信じる者のたましいに注ぎ込まれる経路というよりはむしろ、神の赦し、無罪判決、義とみなしてくださることの根拠となるものである[171]。しかし、聖化に関しては、信仰とは確かに、神の力と変容がたましいに流れる経路[172]であり、信仰を通した神の聖化のみわざは、確かにたましいに触れて、キリストの似姿へと変えてくださる。
10.2 私たちは、義と認められる信仰が、このように必然的に聖化へと導かれる理由は、以下の四つの点にあると信じる。
第一に、義と認められる信仰は保持されるもの、すなわち継続的な信仰であるからである[173]。私たちは救わ
れる信仰を持った最初の瞬間に義と認められる[174]にも関わらず、このような信仰は確かに保持される類の信
仰に他ならない。信仰が未来へと拡張されていくことは、いわば、信仰を最初の種として、ドングリの中にあ
る樫の木のように見なすことである。保持される信仰は道徳的な変化をもたらす[175]。これは義と認められる
信仰の影響として、正しく表現することができる。
第二に私たちは、キリストを信頼することで義と認められる信仰は、義の転嫁と罪の赦し[176]を与える賜物というだけではなく、その和解に基づいて、すべての神の約束を成就させるためのものでもあると信じる[177]。義と認められる信仰は、キリストの完全な御業によって、神が手に入れられ、保証されたすべての約束を確かなものとして信頼することにより[178]、キリストの贖いの完成された御業をほめたたえる。
第三に私たちは、義と認められる信仰が、キリストのすべての役割[179]を受け入れるものであると信じる。すなわち、キリストは創造主[180]、万物の保持者[181]、救い主[182]、先生[183]、導き手[184]、慰め主[185]、助け手[186]、友[187]、弁護してくださる方[188]、守り手[189]であり、主[190]である。義と認められる信仰は、キリストを分割して、一部分だけを受け入れて、残りを拒絶するようなものではない。キリストが私たちにとってどのようなお方であるかを完全に認識したり、理解する前であったとしても、キリストのすべては義と認められる信仰によって受け入れられる。みことばの中で、キリストについて、より多くのことが明らかにされるにつれて、真の信仰はキリストを認識し、キリストをより完全に受け入れるようになる[191]。
第四に、このキリストのすべてを受け入れることは、単なる知的な同意や、意志による決定ではなく、神がイエスにあって私たちに与えてくださっているすべてのことについて、心からの、そして(まだ不完全なものであったとしても)御霊による満足感を得ることだと信じる[192]。したがって、道徳的な醜さや罪の危険性から離れるようになる心と思いの変化、いわゆる「悔い改め」[193]と呼ばれるものは、救いの信仰の本質に含まれている。
10.3 私たちは,この忍耐強く,未来志向で,キリストを受け入れ,心を満たす信仰は,生き方が変わるものである[194]と信じる。来るべき時における最終的な救いは、生き方を変えることにかかっているという聖書の教え[195]は明瞭である。これは信仰のみによって義とされるということと矛盾していない。義と認められる唯一の信仰とは、単独で留まるだけのものではなく、むしろ愛によって働くものである[196]。
10.4 私たちは、義と認められる信仰という、このシンプルで力強い現実が、神の賜物である[197]と信じる。これは神の選びの愛にしたがって[198]、無条件に与えられるものである。それゆえ、誰も自分自身を誇ることはできず[199]、ただ、救いのすべての要素のゆえに、神にすべての栄光を帰するだけである[200]。私たちは、聖霊が私たちの生き方を変える決定的な担い手であると信じる。そして、聖霊が私たちに与えられ、聖さを働かせてくださるのは、御子に対する、私たちの日々の信仰を通してである[201]と信じる。御子は聖霊が栄光を帰することを愛しておられるお方だからである[202]。
10.5 私たちは、御霊により、信仰を通して[203]もたらされる聖化は、地上のいのちにおいては不十分で未完成であるものである[204]と信じる。罪への隷属は破られ[205]、罪深い欲望はキリストの栄光におけるすばらしい満たしの力によって徐々に[206]弱められるが、すべての人の心の中には腐敗の名残が残っており、それが和解不可能な戦い[207]を引き起こし、生涯にわたって、信仰の戦いにおける警戒をするように呼びかけている[208]。
10.6 私たちは、義と認められる人は皆、この戦いに勝つと信じる。彼らは信仰によって忍耐し、決して彼らのたましいの敵に打ち負かされることはない[209]。この忍耐は、キリストの血によって得られた[210]新しい契約の約束[211]であり、神ご自身によって私たちの内に働きかけられるものである[212]。それは減るものではなく、むしろ私たちの警戒心に力を与え、励ましてくれるものである[213]。だから、最後にはこういうことになるだろう。「私は勇敢に戦い抜きました[214]。しかし、働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みでした[215]」。
第11条 黙想と祈りのうちに生きて働く神のことば
11.1 私たちは、信仰は神の御霊によって[216]、神のみことば[217]と祈り[218]を通して目覚めさせられ、保たれていると信じる。信仰における勇敢な戦いとは、主に聖書[219]を黙想し、神がそれを私たちのたましいに適用してくださるように祈る[220]ことによって、戦われるものである。
11.2 私たちは、神が聖書に記された約束は、私たちを罪の惑わしから救い出すのに適したものであり、神の守りと備えと臨在の中にあるすばらしい喜びを私たちに示し、差し出していることを信じる[221]。それゆえ、イエスにあって神が私たちのためにしてくださるすべての約束を読み[222]、理解し[223]、熟考し[224]、記憶し[225]、味わう[226]ことは、私たちの生活の中にある罪の虚偽に満ちた誘惑の力を断ち切るための、聖霊の主な手段である。したがって、私たちは昼夜を問わず、このような黙想に身をゆだねる必要がある[227]。
11.3 私たちは、神が私たちに祝福を受けるように定めておられ[228]、信仰により[229]、イエス[230]の御名によってささげられた祈りを通して、ご自分の民をご自身の栄光のために用いられる[231]ことを信じる。すべての祈りは、究極的には、神の御名があがめられ、神の国が来て、神のみこころが天で行われるように、地でも行われるようになることを求めなければならない[232]。万物に対する神の主権は祈りを妨げるものではなく、むしろ私たちの祈りが実現する希望の理由である[233]。
11.4 私たちは、祈りは黙想のはしためであり、黙想になくてはならないものであると信じる。私たちはこの世に背を向けてみことばに目を向けるようになるため[234]、また、神の証しの中に、神の栄光を見る霊的な能力のために[235]、また、神の愛を見てたましいの満たしを得るために[236]、そして、神のみこころを実行するための内なる人の力のため[237]に、神に叫び求める。祈りによって、神はご自分の民を聖別し[238]、福音のための働き人を世に遣わし[239]、神のみことばを広め、サタンと不信仰に勝利するようにされる[240]。
第12条 キリストの教会と、教会の教義
12.1 私たちは、一つの普遍的教会を信じる。教会はキリストにあって選ばれ、信仰を通して、御霊によりキリストと一つのからだとして結合した、すべての時代と場所における人々の集まりである。キリストご自身がすべての供給者であり、すべてに勝る至高者であり、すべてにおける最高責任者であられる[241]。私たちは、教会の究極的な目的は、永遠に続く礼拝の喜びの中で[242]神をほめたたえる[243]ことであると信じる。
12.2 私たちは、普遍的な教会が、以下のことを地域教会において表現することが神のみこころであると信じる[244]。すなわち、信じる者たちが集まって、神のみことばが宣言されるのを聞き[245]、共同の礼拝に従事し[246]、バプテスマ[247]と主の晩餐[248]の礼典を実践し、多様な愛の働きを通して互いに信仰を築き上げ[249]、聖書的な規律を通して信仰の従順の中で互いに説明責任を持ち[250]、地域と世界の伝道に従事することである[251]。教会とは、各メンバーが、神の賜物にふさわしい働きを見つけるべき一つのからだであり[252]、御霊が宿る神の家であり[253]、真理を否定する世界における神の真理の柱と土台であり[254]、人々がその良い行い、―特に貧しい人々のための[255]―の光を見るため、丘の上に建てられた都市であり、天におられる御父に栄光を帰するためのものである[256]。
12.3 私たちは、バプテスマは主の礼典であり、悔い改めて信仰を得た人々[257]が、父、子、聖霊の名[258]において水に浸かる[259]ことによって、キリストの死と復活における[260]、キリストとの一体化を表明するものである[261]と信じる。バプテスマは神の新しい民,真のイスラエルに属することのしるしであり[262]、埋葬[263]ときよめ[264]の象徴であり、不信仰の古い生活における死と、罪の汚れからのきよめを表わすものである。
12.4 私たちは、主の晩餐は主の礼典であり[265]、信じる者たち[266]が集まってパンを食べることで、キリストのからだが神の民のために与えられたことを表し、主の杯を飲むことで、キリストの血による新しい契約を表すものであると信じる[267]。私たちは主を思い起こしてこれを行い、主が来られるまで主の死を宣べ伝える。キリストのからだと血をふさわしい仕方で食べて飲む者は、肉体的にではなく霊的に、信仰によって、キリストの死によって得られた恩恵により養われ、恵みのうちに成長していく[268]。
12.5 私たちは、みことばと祈りの働きのために、牧師・長老という役割によって教会が指導されるように、霊的な資格を持った男性が神によって召されることを、各地方教会が認め、肯定するべきであると信じる。女性は、地方教会における牧師・長老の役割を果たすべきではないが、キリストのからだを教化し、福音を広める適切な役割において、その賜物を使うよう奨励される[269]。
第13条 「あらゆる国の人々を弟子としなさい」というキリストの大宣教命令
私たちは、主イエスから与えられた「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という大宣教命令は,世の終わりまで主の教会を拘束するものであると信じる[270]。この任務は、すべての部族、言語、民族、国民に福音を宣べ伝え[271]、彼らにバプテスマを授け、主のみことばとその生涯を教え[272]、人々を教会へと集めることで[273]、自分たちの民の間でクリスチャンとしての召しを果たすことができるようにすることである。世界宣教の究極の目的は、喜びの心を伴う信仰と従順によって、神の御名をほめたたえる礼拝者を、神がみことばによって創造することである[274]。宣教命令が存在するのは、礼拝が行われていないからである。収穫の時が終わり、数え切れないほどの贖われた人々が、神の御座の前で顔を伏せれば、宣教はもはやなくなる。宣教の必要は一時的なものである。しかし、礼拝は永遠に存続する。それゆえ、礼拝は宣教の燃料であり、目的である。
第14条 死と復活、主の再臨
14.1 私たちは、クリスチャンが死ぬとき、聖さにおいて完全なものとされ[275]、パラダイスに入れられ[276]、意識を持ったまま、キリストの臨在の内に連れていかれることを信じる。それは、地上におけるどのような経験よりも栄光に満ち、満足感を与えるものである[277]。
14.2 私たちは,祝福に満ちた望み[278]、すなわちこの世の終わりに、イエス・キリストが人として[279]、目に見える形で[280]、肉体的に[281]、突然[282]、偉大な力と栄光とともにこの地上に戻られ[283]、ご自身の選びの民を集められ[284]、死者をよみがえらせ[285]、国々をさばき、ご自身の王国を確立される[286]ことを信じる。私たちは、義人は主の永遠の喜びの中に入り[287]、不義によって真理を阻んでいる人々[288]は、意識を持ったまま、永遠に悲惨な状態にゆだねられる[289]と信じる。
14.3 私たちは、この時代におけるすべてのことの終わりは、永遠の始まりであると信じる。すなわち、決して終わることがなく、限りなく増え続ける幸せが贖われた人々の心のうちにあり、神がご自身の無限かつ無尽蔵の偉大さと栄光を、神の民の楽しみのために、ますます豊かに示してくださるのである[290]。
第15条 この宣言の精神と教会の一致
15.1 私たちは、この信仰宣言にあるすべてのことが、等しい重要性を持つとは信じていない。あるものはより本質的であり、あるものはより本質的ではない。また、人が救われるためには、この宣言のすべての部分を信じなければならないとも信じていない。
15.2 私たちの目的は、すべての人が信じることができる最小の真理を発見することではなく、むしろ、神のご計画のすべてを受け入れて、教えることである[291]。私たちの目的は、聖書と、その真理の完全性[292]と、聖書の著者の栄光を、心から守り行うことを奨励することである。私たちは、聖書の教義が、様々な教えの風[293]の中で聖徒たちを安定させ、教会をその宣教のために強めるものであることを信じる。偽りの宗教や世俗主義の大いなるシステムがそこにあるからである。私たちは、愛という至高の美徳は、神を中心とした教義の堅い食物によって養われると信じる[294]。私たちは、イエス・キリストにあって、すべての人々の喜びのためにある、すべてのことにおける神の主権への情熱が、神と神のすばらしい御業を、深く、喜びをもって知る雰囲気の中で保たれることを信じる[295]。
15.3 私たちは、教会における一致[296]を導くのは、すべての人が集まることのできる教義の最低共通項を見つけることによってではなく、むしろ真理の価値を高め、教会、学校、宣教、ミニストリーにおける教義的なパラメーターを示し、真理から生じる一致を追い求め、その上で、どのようにしてクリスチャンが境界を越えて互いに愛し合うことができるのかを世界に示すこと[297]によってこそ、教会の一致は最もよく実現されると信じる。真理の重要性は教義上の境界線が存在することによってもたらされ、一致はその境界線を越えて、他者を愛することによってもたらされるのである。
15.4 私たちは、この宣言の無謬性を主張するものではなく、聖書による改善と修正に開かれたものとする[298]。しかし、私たちはこれらの真理を自分の目で見たかのようにしっかりと守り、これらのことが真理であるかどうか、聖書を調べるように、他の人に呼びかける[299]。会話や議論が行われるにつれて、私たちは互いに学び合い、境界線が調整されて、以前は意見の合わなかったグループが、より親密な交わりの中に入れられることもありうる。
[1] Ⅱテモ3:16、Ⅱペテ1:21、3:16、Ⅰコリ14:37、2:13、マタ22:43-44、ヨハ14:26、16:13-14
[2] 箴30:5、民23:19、詩12:6、へブ6:18、マタ24:35、テト1:2、ヨハ17:17、マタ22:29
[3] Ⅰペテ1:10-11、ヨハ11:51
[4] Ⅱペテ3:16、マタ4:6-7
[5] Ⅰコリ2:12-16
[6] 詩119:18、119:12、エペ1:18
[7] 申6:4
[8] マタ16:16、Ⅱコリ6:16、Ⅰテモ4:10、へブ3:12、黙7:2
[9] ヨブ42:2、詩115:3、ダニ4:25、4:34-35、エペ1:11、ヤコ4:15
[10] 詩138:5
[11] マタ28:19、Ⅱコリ13:14
[12] Ⅰコリ8:6
[13] ヨハ1:18、5:18、6:46、20:17、使2:33、ロマ1:7、15:6、Ⅰペテ1:3、ピレ3
[14] ヨハネ1:1(ニケア・コンスタンティノポリス信条の引用であろう。)
[15] コロ2:9
[16] コロ1:15-16、へブ1:5-6、ヨハ1:14,18
[17] ヨハ20:31、1:1-3、5:18、6:46、マタ1:23、11:27、ヨハ10:30、10:38、12:45、14:7、ロマ9:5、コロ2:9、テト2:13、ヘブ1:3、1:8、Ⅱペテ1:1、黙22:13
[18] ヨハ14:36、15:26、16:13-14、Ⅰコリ12:11、エペ4:30
[19] 使5:3-4、Ⅰコリ3:16、2:10-11、ロマ8:27
[20] Ⅰテモ1:11、マタ25:23、ヨハ15:11、17:26、マタ12:18、箴8:27-30
[21] Ⅱテモ1:9、エペ3:11、1:4、Ⅰペテ1:20、黙13:8
[22] ロマ11:36、エペ1:6、12、14、イザ60:21(43:7)、ヨハ12:27-28、17:1、17:4、ピリ2:11
[23] Ⅰコリ2:9、ロマ8:28
[24] 詩37:4、ピリ4:4、マタ25:23、黙21:4
[25] エペ1:11
[26] 民23:19、Ⅰサム15:29
[27] イザ46:9-10、箴16:33、19:21
[28] イザ41:21-23、42:8-9(創15:13、40:13,19、出3:19、申31:16、詩34:20、イザ44:6-8、44:24-28、45:11、45:20-21、46:8-11、48:1-6、ゼカ12:10、ヨハ6:64、19:36-37)
[29] ヨブ9:7、イザ40:26
[30] マタ10:29-30、コロ1:16-17
[31] ヨブ37:6-13、詩147:15-18、マコ4:39-41
[32] 詩33:10-11、アモ3:6、哀3:37-38、創50:20
[33] 黙17:16-17.箴21:1、16:33
[34] 箴20:24、16:9
[35] 詩104:24、ロマ16:27、Ⅰコリ1:21
[36] 申32:4、Ⅰヨハ1:5、ヤコ1:13、ロマ3:4
[37] ロマ1:20、2:11-12、ダニ4:37
[38] ロマ3:19
[39] ロマ9:11-18、Ⅰコリ1:26-31、ヨハ10:25-29、17:6、6:37-39、ロマ8:28-30
[40] ロマ11:5-8
[41] Ⅱテモ1:9、エペ1:4
[42] ロマ6:17、8:2
[43] Ⅱテモ2:24-25、使11:18
[44] ヨハ6:44、6:65、ピリ1:29、エペ2:8-9、マタ11:27、16:17、使16:14
[45] 創1:1
[46] 詩24:1-2
[47] へブ11:3、1:2、ヨハ1:1-3
[48] 脚注22参照、出3:13-14、詩50:9-15、
使17:25
[49] 黙5:9、7:9-10
[50] イザ35:10、マタ25:23
[51] イザ43:7
[52] 創2:7、1:27、2:21-22、Ⅰコリ15:22、15:45、ロマ5:14
[53] 創1:27、9:6、ヤコ3:9
[54] 創1:31
[55] 脚注51参照
[56] エペ5:22-33、創2:18
[57] 伝7:29、創3:1、3:13、Ⅱコリ11:3
[58] 創2:17、3:6
[59] 創3:7-8、ロマ5:12、Ⅰコリ15:21
[60] ロマ5:12-19
[61] エペ2:2-3
[62] ロマ6:16、6:20
[63] Ⅰコリ2:14、ロマ8:7-8、申29:4
[64] ロマ8:20
[65] ロマ8:23
[66] Ⅱコリ4:16
[67] ロマ8:35-36
[68] Ⅰテサ4:13
[69] ロマ2:4
[70] ガラ4:4
[71] ヨハ3:16-17、マタ16:16
[72] ルカ1:34-35
[73] マタイ1:23(ルカ1:34-35)
[74] ヨハ1:14
[75] へブ2:14、2:17
[76] 脚注14参照
[77] ピリ2:6-8(脚注74、75参照)
[78] Ⅰテモ2:5
[79] へブ4:15
[80] ヨハ7:46、マコ1:27、マタ22:16
[81] マコ1:27
[82] マタ4:23
[83] マタ11:4-6
[84] マコ4:39
[85] マタ14:25
[86] マタ14:19-20
[87] ヨハ6:64、13:21、13:26、マタ26:2、ヨハ13:27
[88] ルカ22:31-34、ヨハ21:18-19
[89] ヨハ13:19
[90] 創3:15、ロマ16:20
[91] 申18:18、使3:20-23
[92] 詩110:4、へブ5:5-6
[93] イザ9:7、マタ1:1、22:42
[94] イザ52:13、53:3-6、マコ10:45
[95] ルカ24:25-26
[96] 使徒2:23
[97] ヨハ10:18
[98] 使4:27-28
[99] ヨハ19:30、Ⅰコリ15:3
[100] ヨハ19:40-41、Ⅰコリ15:4
[101] ロマ4:25
[102] Ⅰコリ15:4、マタ28:6
[103] ピリ2:9-11、使徒17:31
[104] 使1:4
[105] 使1:9-11
[106] ルカ22:69、使2:33、5:31、コロ3:1
[107] ロマ8:34、へブ4:14、Ⅰヨハ2:1
[108] Ⅰコリ15:25、へブ1:13
[109] ロマ5:18-19
[110] ヨハネ1:29
[111] Ⅰコリ15:3、Ⅰペテ2:24、3:18、ロマ3:24-25、Ⅱコリ5:14、ロマ5:6、8:34、14:9、ガラ2:21
[112] エペ1:7、コロ1:14、使13:38
[113] Ⅱコリ5:21、ピリ3:9、ロマ3:21-22
[114] ロマ4:3、3:25-26
[115] ロマ3:26、3:28、ガラ2:16
[116] ロマ8:1、8:3、ガラ3:13
[117] エペ2:3-6、Ⅰテサ1:10、ロマ5:9、Ⅰテサ5:9
[118] ロマ3:25-26
[119] コロ2:13-14、ガラ3:13
[120] ヨハ3:16、マタ28:19、コロ1:23、使1:8
[121] 黙22:17、ヨハ4:14
[122] ヨハ6:37
[123] ルカ22:20、Ⅰコリ11:25、ヘブ8:6、9:15(12:24)13:20-21
[124] 脚注43参照
[125] 脚注44参照
[126] ヨハ15:13
[127] ヨハ10:14-15
[128] エペ5:25
[129] 黙5:9、ヨハ17:6,9,19、11:51-52、ロマ8:32
[130] 詩104:30、創1:2
[131] ロマ8:7-9
[132] 士師14:6
[133] 士師3:10
[134] Ⅰサム10:6
[135] Ⅱペテ1:21、マタイ22:43(詩110:1)
[136] ルカ24:49、使徒2:33
[137] ヨハ16:13-14、7:39
[138] 使1:8
[139] ロマ15:18-19、使16:14、ヨハ3:8
[140] Ⅱコリ3:17-18
[141] へブ2:3-4
[142] Ⅰコリ12:7-10、へブ2:4
[143] 使1:8、Ⅱテサ3:1、ロマ15:18-19、使13:2、4:31
[144] Ⅱコリ6:16、エペ2:21
[145] エレ31:33-34、32:40
[146] 脚注43,44参照
[147] エペ2:4-6
[148] ロマ8:7-8
[149] マコ4:19
[150] ロマ6:17、8:7-9
[151] 脚注149参照
[152] Ⅱコリ4:4-6
[153] 使16:14、Ⅱコリ3:18、4:4、4:6
[154] ヨハ16:14
[155] 使4:12、Ⅰテモ2:5、ロマ3:19-22、エペ3:6、ロマ1:5、使17:30-31、ロマ10:13-15
[156] ロマ1:19-20
[157] テト3:5-7、ロマ3:28、3:23-24、4:4-5、ガラ2:16、ロマ5:1、ガラ3:24、5:4、ピリ3:8-9
[158] ロマ4:6-8
[159] 脚注113参照
[160] ロマ3:28、4:4-5、脚注157参照
[161] ロマ5:18-19、Ⅱコリ5:21、ピリ3:9、エレ23:5-6
[162] ロマ5:1
[163] ガラ5:22-23
[164] ガラ5:6、Ⅰテモ1:5、コロ1:4-5、Ⅰヨハ3:14、Ⅰヨハ4:8、4:20、Ⅰヨハ4:16
[165] Ⅱテサ2:13、使26:18、Ⅱテサ1:11(Ⅰテサ1:3)、ヤコ2:17、2:26、使15:9、Ⅰヨハ2:3-4、5:1
[166] ヘブ12:14、ロマ8:13-14、ガラ5:21、6:8-9、ヨハ5:28-29、Ⅰコリ6:9-10、マタ18:34-35、ヤコ2:21-25
[167] ヤコ2:17-20、2:26
[168] 使26:18、15:9、脚注167参照
[169] ロマ4:3、4:5、ルカ7:29、7:35、16:15
[170] Ⅰペテ1:2、Ⅰテサ5:23、4:7、ロマ6:19,22
[171] ガラ3:5、脚注159,162参照
[172] 脚注164,165,167,168参照
[173] Ⅰヨハ2:19、ピリ1:6、2:12-13、ロマ4:3、ロマ4:19-22(創17:17)、ヤコ2:21-23、創22:10
[174] 脚注162参照
[175] 脚注166,167参照
[176] ピリ3:9
[177] ロマ4:20-22、コロ1:23、ヘブ11:1、3:6、ロマ6:8、Ⅰテモ1:16
[178] Ⅱコリ1:20
[179] ロマ10:9、Ⅰヨハ3:23、使20:21、ガラ2:16、コロ1:4、2:5、Ⅱテモ3:15、ヨハ20:31、ピリ1:29
[180] ヨハ1:1-3
[181] コロ1:17、ヘブ1:13
[182] ルカ2:11
[183] ヨハ13:13
[184] 使16:7
[185] ヨハ14:18、14:27、Ⅱコリ1:5
[186] ピリ1:19
[187] ヨハ15:13-15
[188] Ⅰヨハ2:1
[189] Ⅱテサ3:3
[190] ロマ10:9
[191] ピリ3:15
[192] ヨハ6:35、Ⅰヨハ5:1-4、ヨハ3:19-21、
ヘブ11:1、11:24-26
[193] マタ3:8、ヘブ6:1
[194] 脚注167,168参照
[195] 脚注166参照
[196] ガラ5:6、脚注166参照
[197] 脚注43,44参照
[198] Ⅱテサ2:13、ロマ8:29-30
[199] エペ2:8-9、Ⅰコリ1:26-29
[200] ロマ15:18、Ⅰコリ1:30-31、15:10、4:7、へブ13:21、ロマ11:36
[201] ガラ3:5
[202] ヨハ16:13-14
[203] Ⅱテサ2:13
[204] ピリ3:12、Ⅰヨハ1:8-10、2:1、マタ6:11-12、ロマ6:11-13、ガラ5:16-18
[205] ロマ6:14、6:17
[206] Ⅱコリ3:18、Ⅰコリ1:18、ヘブ10:14、Ⅱペテ3:18
[207] ガラ5:16-18、Ⅰペテ2:11
[208] ヘブ3:12-13、Ⅰテモ6:12、Ⅱテモ4:7-8
[209] マコ13:22、ルカ22:31-32、ヨハ10:27-30、ロマ8:30、ヘブ3:14、Ⅰヨハ2:19、Ⅰコリ1:8-9、ピリ1:6、Ⅰテサ5:23-24、Ⅱテモ1:12、Ⅰペテ1:5
[210] Ⅰコリ11:25
[211] エレ32:40
[212] ヘブ13:20-21
[213] ピリ2:12-13
[214] Ⅱテモ4:7-8
[215] Ⅰコリ15:10
[216] 脚注43,44参照
[217] ロマ10:17
[218] マコ9:24、ルカ22:31-32、エペ1:18-19、Ⅱテサ3:1、1:11
[219] エペ6:17-18、ヘブ4:12、詩1:1-3
[220] 詩119:36、119:18、86:11
[221] Ⅱペテ1:3-4、ヘブ10:34、11:24-26、13:13-14
[222] エペ3:4
[223] エペ5:17、脚注223,225参照
[224] Ⅱテモ2:7
[225] 詩119:11
[226] 詩37:4、34:8
[227] 詩1:2
[228] ピリ4:6-7、マタ7:7-11
[229] ヤコ1:5-8
[230] ヨハ14:13(15:16、16:23-24、16:26)
[231] エペ6:19、マタ9:38
[232] マタ6:9-10
[233] エゼ36:37-38
[234] 詩119:36
[235] 詩119:18、エペ1:18
[236] 詩90:14
[237] エペ3:14-16、コロ1:9-11
[238] Ⅰテサ3:12-13
[239] マタ9:38
[240] Ⅱテサ3:1
[241] コロ1:18、エペ1:22、3:6、4:15-16、5:23
[242] エペ3:10、マタ5:14-16
[243] 黙5:9-12
[244] 使8:1、Ⅰコリ16:19
[245] エペ4:11-12、Ⅱテモ4:1-2
[246] エペ5:18-20、コロ3:15-16
[247] マタ28:19
[248] Ⅰコリ11:23-26
[249] Ⅰコリ12:4-7、14:26、ロマ12:6-8
[250] ガラ6:1、ヤコ5:19-20、Ⅰコリ5:7,11-13、Ⅱテサ3:14-15
[251] コロ4:5-6、ロマ15:24、Ⅲヨハ7-8、マタ28:18-20
[252] Ⅰコリ12:13-18
[253] エペ2:20-22
[254] Ⅰテモ3:15
[255] ガラ2:10、ロマ15:26、ルカ14:13-14
[256] マタ5:14-16
[257] コロ2:12、Ⅰペテ3:21、ガラ3:26-27、使2:38、18:8、マタ3:6
[258] マタ28:19
[259] 使8:36-39、ヨハ3:23、ロマ6:4
[260] ロマ6:3-4
[261] Ⅰコリ12:13
[262] ロマ2:28-29、4:16、ガラ3:7、マコ1:4-5
[263] 脚注260参照
[264] へブ10:22
[265] 脚注248参照
[266] Ⅰコリ11:17-20、11:22
[267] 脚注248参照
[268] Ⅰコリ10:16-17、ヨハ6:53-57、6:63
[269] エペ4:11-12、Ⅰテモ5:17、使14:23、テト1:5、使6:4、Ⅰテモ2:12-13
[270] マタ28:18-20
[271] 黙5:9
[272] 脚注270参照
[273] 使14:23
[274] ロマ1:5、ヨハ4:23、ロマ15:8-11
[275] へブ12:22-23
[276] ルカ23:43
[277] ピリ1:23(Ⅱコリ5:1-9、黙6:9-11、パウロが肉体とたましいを分離可能なものと考えているかどうかという問題については、Ⅱコリ12:2-3を参照)
[278] テト2:13
[279] 使1:9-11
[280] マコ14:61-62
[281] ピリ3:20-21、ルカ24:39-43、脚注278参照
[282] Ⅰテサ5:2-3
[283] ルカ21:27
[284] マタ24:31
[285] Ⅰテサ4:15-17
[286] Ⅰコリ15:22-24、Ⅱテモ4:1、ルカ22:28-30
[287] 詩16:11、マタ25:23、25:46、19:29、ヨハ3:16、ロマ6:23、ユダ24-25
[288] ロマ1:18
[289] ダニ12:2、マタ3:12(18:8、10:28、12:32、25:41,46、26:24、マコ3:29、9:43-48、ルカ16:26、ユダ12-13)、Ⅱテサ1:9、黙14:11(19:3、20:10)
[290] エペ2:6-7、詩16:11、Ⅰコリ13:12、2:9
[291] 使20:27
[292] テト1:1、Ⅰテモ6:3-5、4:1
[293] エペ4:13-14
[294] Ⅰテモ1:5(訳者注:原本の脚注には記載されていないが、へブ5:14「堅い食物」(strong meat)を反映した表現と思われる)
[295] 詩9:10
[296] エペ4:4-6
[297] ヨハ13:34-35
[298] Ⅰコリ13:12、Ⅱペテ3:18
[299] 使17:11